top of page

アートを日常のなかに戻す  

〜「我孫子アートな散歩市」の企画に関わって〜

中津川 督章

 江戸時代以前、「美術」や「工芸」という言葉はなかったが、それらに類したものすべては生活空間の中で使われていた。例えば、書画なら襖絵や屏風絵や掛け軸、立体のものでは信仰の対象である仏像や神像をはじめ寺社建築を飾る「彫り物」などは建築やインテリアの一部であった。また現在なら工芸分野とされる指物や細工物はいうまでもない。

 明治以降になって、西欧の「美術」という概念が輸入された。それとともに美術を鑑賞するための美術館という施設もつくられた。それ以来、美術は生活の場を離れ、人々は教養のために美術館へ行くようになった。一方、本来生活の中でこそ活きてきた「工芸」は「美術」に近づき、鑑賞を目的として美術館に展覧されることになった。

 近頃の地域での芸術祭や野外美術展の盛況は、美術をより親しむための日常生活の場への復帰の動きかも知れない。「我孫子アートな散歩市」も回を重ねるごとに、作家のたんなる作品発表会というのではなく、日常生活空間への作家からの提案の色合いが濃くなってきた。

 第16回「我孫子アートな散歩市」では、我孫子の自然や歴史がつくってきた魅力空間の発見を促したということで振り返った(「アートに親しむ魅力空間の発見と創造」2016年12月)。第17回展では「アートを日常生活に戻す」という目的がよりはっきりしてきた。今回それが顕著に見られた例として、手賀沼公園での佐治正大さんの作品提案を先ず挙げてみる。次に自然との関係について考えさせてくれた作品例をとり挙げる。自然とアートとの関係では、我孫子ならではの空間とのかかわりは無視できない。

1、手賀沼公園への提案

 手賀沼公園に展示された佐治正大さんの作品は七片に分かれた石の彫刻で、総重量は5トン近いという。

 私が佐治さんに初めて会ったのは1989年8月、ギャラリーオカベでの彼の個展時である。その折、私は大いに驚かされた。ギャラリーいっぱいに大きな黒御影石の作品が置かれている。背は低いが長さは3m以上ある。よく画廊に展示できたものである。後で聞いたことだが、重さは2トン弱だそうで、搬入時床が抜けんばかりに凹んだそうである。これほどの大きさの石彫を画廊で見るのは初めてである。それに、そのドーナツ形状の断片となる形の円弧の部分は正確に滑らかなマット状に仕上げられている。私は当時彫刻を始めたばかりで、小さな幾何学的な形のブロンズ作品を鏡面に仕上げていたので、その巨大な作品の仕上げは並のものでない事がよくわかる。特にドーナツ状の三次曲面は大変である。これは驚きであった。

 二回目の驚きは、1992年の茨城県つくば美術館での個展である。20点ほどの石の作品ばかりで、多分その半数は何トンかの大作である。搬入展示は3日間でほぼ徹夜の作業だったという。館内に運びきれなかったと思われる大きく重い作品2点は、館外に展示されていた。

 この時初めて佐治さんの作品をまとめて見たが、フォルムを極めた完成度の高い作品に大いに共感した。それ以上に印象に残ったのは、ギャラリーオカベで見た「片1」1988(上部写真参照)のドーナツ型弧状の滑らかな曲面上を子ども達がすべって遊ぶ姿であった。遅い出発ではあったが、彫刻を始めて3~4年の私にとっては感動的な一瞬であった。

 今回の「我孫子アートな散歩市」では「僕の宇宙儀・片Ⅱ」と題する作品が手賀沼公園に展示された。佐治さんは、宇宙はドーナツ型をしていると考えている。展示場所の選定は見事である。

 我孫子市には手賀沼に面した水辺の公園として「親水公園」と「手賀沼公園」の二か所がある。手賀沼公園は生涯学習センター・図書館を含む「アビスタ」という文化施設が入口部分にあって、水辺に向かって、子どもの遊び場や運動場、原っぱと続き、水辺の近くは起伏があり樹木も豊富な自然庭園風である。休日はピクニックの家族連れで賑わう。

 この我孫子市ではいちばん市民の集まるところ、市民の憩いの場に佐治さんは迷うことなく展示することにした。もちろん公園の地形や樹木の様子から見て最も作品にふさわしいところを適確に選んでいる。卓越した庭師の目である。現代の市民社会の庭園は公園である。

 展示された「片Ⅱ」作品は「片Ⅰ」の一片に対し、七つの断片からなりたっている。材は青糠目石と呼ばれるきめの細かい上質の御影石である。「我孫子アートな散歩市」での野外展示は1か月なので仮設置となる。安全面でやや心配があったのか「のぼらないでね」という看板付きでの展示となる。しかし、そのような心配をよそに子どもたちにとっては恰好な遊び場となる。乗っかって遊ぶときちゃんと靴を脱いでいるところが面白い。足裏の感触がいいに違いない。一方大人たちは作品に座って話し込んだり、もたれてくつろいだりしている。私は公園に来た何人かの人から「こういう作品がこの場に欲しいですね」と話しかけられた。普通、公園にはその土地その場にまったく関係なさそうな彫刻が台座の上に乗せられているのを目にする。有名作家の作品であることが多い。

 佐治作品「片Ⅱ」はまるで公園の起伏の一部のように存在している。市民にとっては、昔からその場にあったようで違和感もないに違いない。これは市民公園における美術作品の実例見本である。実例見本による提案である。

仮設置ながら、本設置での安全面について佐治さんは真剣に考えていた。石の破断面と仕上面の角の部分が危ないので、削って滑らかなアール面にするか、と話していた。こういう問題は普通本設置を進めるとき考えればよいことかも知れない。しかし、彫刻が最も活きる場に設置される時が本当の完成であるとするなら、こういうことを考えるのは当然であろう。私は、差し出がましいと思ったが、佐治さんに一つのアイデアを出した。

 確かに石を割って出てくる角の部分は危ないかも知れない。石器時代の打製石斧に似た形を成す部分もある。私のアイデアはその角が現れないように隙間を土で埋める方法である。ドーナツ型を斜めに切った形の先端部を残し(この部分は石もかけやすいので比較的大きくアールを取っている。)断片の隙間を地面と同じ土でつなぐ。断面が半円の土手ができる。公園の地形によっては最後尾の断片から先にも土手をドーナツ曲面に延ばすことができる。それらの土の上に地面と同じ草が生えたら、石と土による「僕の宇宙儀」の完成である。

 佐治さんからは「自転車で乗り越えることもできるね」という言葉がたちどころに返ってきた。

2、自然とアート その1

 

「土から生まれ、土に還る」草細工

 第17回「我孫子アートな散歩市」旧村川別荘母家の展示は「あの日の村川別荘のように」というテーマで、姫井容子さんがプロデュースした。

 村川別荘が使われていた時代、大正から昭和にかけて、手賀沼を望む台地上に多くの別荘がつくられた。我孫子は当時東京から1時間と少しで行ける景勝の地で、手賀沼をはじめ豊かな自然に恵まれていた。なかでも、旧村川別荘母家は特異な別荘であった。普通、別荘は新しく建てるものであるが、西洋古代史学者の村川堅固は、宿場町であった我孫子の本陣の離れを移築した。その江戸の雰囲気を持つ瀟洒なたたずまいを今も感じることができる。

 この別荘が使われたのは大正から昭和初期にかけてである。この頃は、まだ生活用品の多くは自然の草木から得ていた時代である。この母家で「我孫子アートな散歩市」の会期初日から7日間、山本あまよかしむさんによる「草細工展」とも呼べる珍しい展覧会が開かれた。

 まず驚くのは、草でつくった生活用品が、基本となる縄や糸をはじめ、使用別、材料別に整理して何百点と展示されていることである。

 縄には、生えている草の写真を挟んで材料がわかるようにしている。4点づつ17列に並べているので、68種の草を使ったことになる。同じように30点のコースターがあって、生えている草の写真を読み札にして合せるという「草歌留多」。これは私にはまったく区別がつかないが、いかに多くの種類の草を試みながら作っているかはよくわかる。他に用具の種類やその材料がわかるように、畳の上などに展示している。器状のものは竹籠や笊(ザル)をはじめ縄を編んだものなど、これも種類が多い。箒(ホウキ)や円座、スリッパもある。スリッパは居間から縁側に出たところに置いてあるので、そのまま履いて手洗いに行きかねない。どうやらそうしてくれということらしい。

 また山本さんのサービス展示であろうか、居間の障子の前の棚上に、用具以外の草の使い方を説明してその草の見本を展示している。血止めに使った草(ツバナ)等があり、なるほどと思い見ていた。蕗の葉っぱも展示していて、用を足した後お尻を拭いたから、フキという名が付いているとか?

 老人の私にとって懐かしいものが沢山あるが、今や忘れられたものがほとんどであろう。旧村川別荘母家がまるで民俗資料博物館と化したようである。しかもこの博物館畳という草の上で草の作品を手に取ってみるのである。床が畳の博物館は先ず無いであろうが、そういうこととは別に、どこかが違っている。普通博物館の資料というと、今までに実際に使われてきた生活用品を、地域別にとか、使用目的別に集めて見せるものである。ところが、山本さんは材料である草の種類を優先している。先の縄の展示では、縄に綯(な)うことができる草を次々と見つけては、本人の言葉によれば「標本化」している。そのために無数の試作をしているに違いない。恐らく、縄文時代以来の生活史で、縄に適した草の発見と普及があった。その過程を、山本さんが一人で試みたようなものである。それ以上に、今までの生活史に無かった種類の草を使った縄も多数あるかもしれない。

 旧村川別荘母家には立派な床の間があって、もう一人の参加作家である染色家であり、南画家の杉原あつさんの「枇杷」の絵が掛けられている。山本さんが草の筆をつくり、杉原さんがその筆を使い、即興で書のような絵を描いた今回企画のアートコラボである。流石、普通の筆では描けない美しい線がでている。

 民族資料館なら、その筆は「箒」と分類するかもしれない。

 昨年の秋、旧村川別荘母家を見に来た山本さんを、私は、姫井さんから紹介された。その何日か後、流山でワークショップをやっている、というので見学かたがた訪ねた。そのとき、昨年の旧村川別荘母家での展覧会のことを書いた原稿のコピーを、資料として渡した。今では大抵の人はそうであるが、私も、紙の資料はクリアファイルに入れて渡すのを常としている。しかし、山本さんは資料を抜き取り、クリアファイルだけを黙って返してよこした。なかには遠慮する人もいるので、再びどうぞ、と差し出すと「私は、プラスチックは使いませんので」という答えが返ってきて、私はハッ!とした。山本さんの草の仕事は、材料に対する工芸的な好みや興味だけから始めたのではないらしいことがおぼろげながら分ってきた。更に今回の展覧会を見て、彼女の生き方の表現ではないかと思えてきた。姫井さんに、山本さんの事がよくわかる資料を持っていたら欲しい旨伝えたら『Art Room』と名づけられた一枚のプリントのコピーを渡された。筆者略歴と連絡先の枠組み以外は山本さんの文章と写真である。中には彼女の草の仕事のルーツとなる事柄や考え方、生き方が簡潔に記されていた。山本さんの略歴を見ると、1999年から2003年まで、ブルガリアの高校生に日本の工芸染織を教えに行っている。

 そこでの事情を『Art Room』の記述から拾ってみる。

「・・・まず困ったのは染料が簡単に買えないこと。西欧の高い染料を日本の援助で買っていたのでは、生徒たちは卒業してから自分で作品を作ることができません。そこで、自然豊かな地の利を生かして植物染色をすることに。しかし、当時ブルガリアでは植物染めをしている人は皆無に等しく、教科書も参考書もありません。見つけた植物を片っ端から染めてデータを作りました。これが面白い!染めることよりも植物自体の多様性に驚き、地沸き肉躍ったのです。この経験が今日の草縄標本制作につながっていることは言うまでもありません。」

このあと、ブルガリア人の生活態度についても、ものを大切にすることや、できるだけ自分のものを作る生活に「もののあふれた国から来たもやしっ子には新鮮なものでした。」と書いている。ところが帰国後、「田舎暮らしとか自然素材を求めてというわけでもなく。」房総に移り住んで、ブルガリア人と同じような生活をすることになる。

「車がないので広い田舎町で買い物難民になった結果、身の周りの植物に頼るようになったのです。ホームセンターやスーパーマーケットに行く必要はありません。」

 この項の小見出しは「無いことが『つくること』につながる」となっている。再び私はハッ!とした。これは身をもって実感した言葉であり、創造の原点ではないか。さらに、山本さんは草細工の製作販売や、その基本を教える講習会も行っている。『Art Room』に「先生は草」という文章があって、自分の経験から学んだ、生きていく上での基本となる考え方が述べられている。

「講習会では受講者に、『先生は私ではありません。』と申し上げています。講師はきっかけを与えるにすぎない。自分の目で見て身体で感じたことがすべて。工房では草細工の最も基本だけを指導しています。それ以上は自分で考え、広げていけばよい。テレビ、インターネット、本など過剰な知識は、時に目の前の事実を観察することを忘れさせてしまいます。教科書通りの正解を求めるのではなく、失敗のデータの方が何よりも貴重な宝物なのです。問いかけると草たちは何でも答えてくれる。草が先生。」

 日本の伝統文化のなかに、お茶や生け花などに代表される「おけいこごと」の世界がある。いわゆる「型」を身に着け習得していくもので、型通り出来ると、良くできました。と次のより上級とされる「型」が用意されている。手本(教科書)があって、そこから学んでいくという学習が普通になっている。しかし、山本さんは草細工の講習で、基本的な技術は教えるがあとは草に聞きなさい、と突き放している。自分の目でよく観察し、自分の身体や心で感じ、自分の頭で考え、工夫する。これこそ創造の根となるものであり、山本さんの生き方そのものを示すものだろう。

 今回の旧村川別荘母家での展示は、草の日用品を資料館的に見せるものであったが、山本さんは、草で想像もしえない素晴らしい作品を作っている。写真で拝見したものだが、子ども達が草で編んだお面を付けて遊ぶ姿や、草で作った本などが印象に残っている。本の作品写真が『Art Room』にもあって、タイトルが「草暦(くさごみ)」で(12か月の草を本の形にした作品)とカッコ付の説明がある。この作品は是非見てみたい、ページを繰りながらその感触を味わってみたいものである。できれば、図書館で所蔵してもらうのが良いとも考えている。絵本のように子ども達に触れてもらう。やがてすり切れて傷んでくるであろう。それも私は見てみたい。

2、自然とアート その2

 

​ 〜自然との共作〜

 杉村楚人冠庭園は「澤の家」を含め毎年展示が為されている。この庭園は斜面につくられ、泉も残されている。如何にもつくりましたという庭ではなく、自然な趣の濃い庭である。それだけに、作品展示の場として作家の好みに合っているのか、毎回何人かの作家が作品を展示している。

今回は、庭園の上面奥にある竹藪をいっぱいに使った展示が注目された。グラフィックデザイナーであるおいかわみちよしさんの作品である。彼の作品は、昨年もこの庭の下斜面で拝見しているし、「我孫子国際野外美術展」でも見ている。地面に表意文字である漢字の熟語パネルを並べ、その一字か二字を取り換えることによって妙な意味になって、つい考え込んでしまう、といった知的な遊びを誘うものであった。

 ところが、今回の竹藪の作品は文字ではない。掛軸状の迷彩模様のなかに、漫画で使われるふきだしの図柄が描かれていて、本来文字の入るところが黒丸の点々になっている。今まで文字で遊んできたおいかわさんは、ここでは文字を破棄したようである。何か話しているらしいということは分かるが、内容は全く分からない。人間がつくった文字の意味や形で表せない自然の言葉を、グラフィカルに表現するとこうなりますよということらしい。

 すべての自然物には霊魂が宿るという考え方はアニミズムと呼ばれるがこの考えは、私たち自身の心の底にあるように思われる。だから、藪の中に無言のふきだし図柄が点々と散らされているのを見ると、ハッとする。今迄文字の中で遊んでいた作家が突如自然の声を感じる、気配を感じる、といったかすかな雰囲気を紙ならぬ藪という自然の中に描いて見せた。

最も成長が早く直立して上に伸びる竹林に、私たちは強い生命力を感じる。ここ杉村楚人冠庭園の竹やぶは庭の景観の一部であるためか、根が一定以上に広がらないように囲われている。ふきだしの図柄も藪一杯に20枚ほどが点在していて、竹のやや乱れた垂直線に共鳴している。掛軸状の迷彩色はふきだしの図柄だけを浮かべる効果があるし、それらを吊るすための棒は園芸などに使われる緑色の杭を使っていて、これも竹やぶの中に埋没している。グラフィックデザイナーらしい造形であるし、自然の無言の言葉を、自然との共作によって見事に見せてくれた。

 立体の作家の中には、自然は作品をよりよく見せるための舞台であり背景である。と考えている人がいるが、私は舞台ならやはり美術館が一番ふさわしいと思っている。自然との関係の中でこそ感じられる造形を、おいかわさんの作品で見ることができた。

3、自然とアート その3

 

​ 〜手賀沼の水面展示〜

​ 南側に手賀沼を抱える我孫子市は、景勝の地としてかつては多くの別荘がつくられた。しかし、高度経済成長期以降手賀沼周辺は首都圏のベッドタウンと化し、そこから大量の生活廃水が手賀沼に流れ込み、一転して全国一汚い沼として有名になった。そして2001年、利根川からの導水によって、全国ワーストワンから脱することができた。今はかなりきれいになったように思われる。そこにアート作品を浮かべてみることにした。その試みを促したのは工藤俊文という作家の作品であった。

 工藤俊文さんは私の古い友人で、昔勤めた会社のデザイナー仲間である。12~3年前「こんなものにのめり込んでしまって」と言いながら不思議な写真を見せてくれた。見るなり私はドキッとした。ドキッとするほど感性に訴える作品にお目にかかることは少ない。その写真というのは自分の影を撮っていて、その影の部分に露光を合わせているので、質感と立体感があってまるで実像のように見える。影の部分は石垣であったり、樹や草、飼料の入ったポリ袋だったりさまざまである。影が反転して不思議な実体像になっているのである。この時、私は年齢的にはかなり遅い芸術家の誕生に立ち会っていたことになる。

 その後、影を落とす被写体は増えていった。その中に、水面を被写体にした作品があった。いわばさざなみの像である。私たちの身体の大部分は水だそうで、私は原始的な生命体を水面の影に見たような気がした。私は水面の影を手賀沼に浮かべてみませんか、と提案した。もう一度水面に戻してみるのである。工藤さんはそれは面白い、と早速紙の作品に細い桟を付けて、手賀沼公園脇の水面に浮かべてみた。波にゆらゆらする像が現実の波と重なり、如何にも生命は水から生まれた、という感じがする。その後の試みで、たらいに一週間浸した作品は溶けてしまったそうである。最終的にはポリエチレンフィルムに影像をコピーし、沈まないようエアマットを裏に張り付けた。

 一方、手賀沼に浮かべる作品の中に、私の枕作品を加えることにした。立体と平面の違いはあるが内容に共通点があったからである。この枕作品は10年ほど前につくったもので、私が実際に使っていた枕を木に写しかえて彫ったものである。自分の頭の痕跡が凹みとして残っているので「自刻像」と名付けている。それに白い油性の塗料を塗り、布団状の板にねじ止めする。波に動かされないよう前後にブロックの錘(オモリ)を2個下げる予定であったが、ボート屋の小池勇さんに相談したら2個では足りない、と言われ倍の4個にする。小池さんの注意は実際に浮かべてみてよく分かった。

 工藤さんの作品タイトルは「自影像」私のは「自刻像」いわば分身である。Aさんから「水葬にするのか」といわれた。一か月間の水面展示は、壁面のように、ハイ展示しました。では済まなかった。自然の力が作品にどういう影響を及ぼすか、心配でもあったが楽しみでもあった。

 5月5日の会期日前日、展示した日の夕刻、早くも自然は水面展示に不都合な状況を示してきた。作品を浮かべた位置は岸から西の方向になるので、日が西に傾くと逆光になる。それに波立っていると、平面作品の場合は図柄が全く見えなくなり、何かが浮いているようだ、という程度にしか見えない。自然の照明はままならない。「自影像」だけでももっと岸近くに浮かべるべきであった。

 手賀沼での水面展示は初めての試みなので、風が強いと特に心配であった。会期中は何度も手賀沼公園に通うこととなった。しかし心配をよそに、波の高低や方向、光によって作品の表情が実に多様に変化するのに魅せられていった。お客さんが見るのはそのとき限りの一つの表情であるが、私は多様な表情の変化を十分に楽しむことができ、写真を撮って記録した。

 しかしその反面、実験的試みだっただけに、自然の光や波は先の逆光の例のように予期しない結果をもたらす。最初の写真はほぼ展示位置が決まった作業中のものである。この時は比較的波が穏やかで、作品はギャラリーの壁面のように、水面にきれいに並んでいた。ところが会期も終りの頃(5月31日)の写真では平面作品の「自影像」は一点だけになり、激しい波に揺れている。これは水面展示を初めて一週間ほど後に3枚とも画面のフィルム面が膨らんで画像が判別できなくなり、新しく取り替えて展示された一枚である。また枕作品「自刻像」も激しい波のせいで、錘を縛っているロープの一本が擦り切れたりした。

 新しい「自影像」を浮かべたとき、その位置を岸近くぎりぎりに寄せて画面を見やすくした。この日、胴長を着た工藤さんに出くわした公園管理の人から「沼にゴミが浮いているので片づけるつもりでしたが、あれは芸術?でしたか」と話し掛けられたそうである。そういえば、現代芸術とゴミはどこか似ているところがある、と思えて苦笑した。

 搬出時、予想以上だったのは作品の汚れであった。枕作品「自刻像」で一か月、平面作品「自影像」で取り替えて二週間の水面展示であったが、引き揚げたときは、ヘドロ状の汚れがべったりと付いていて臭気がした。また枕作品の板の上には石ころが沢山乗っかっていた。枕も傷だらけである。子どもの石投げの恰好な標的になったらしい。もしかしたら、不気味に見えたのかも知れない。

bottom of page